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ウェブ版の記事取材。書き手の意思を伝えたい。
ウェブ版の記事取材。書き手の意思を伝えたい。
もともと根無し草のような適当な性格なので、一つの地域に根を張って、読者や取材相手に最後まで責任を持つ仕事をしたいと思ったのが理由です。中でも信濃毎日新聞を志望したのは、年間キャンペーン連載企画の質の高さでした。取材対象である地域と共に生きるような働き方がしたいなと思いました。入社前は夜間の大学院に通いつつ、ドキュメンタリー映画の制作会社で働いていました。当初は海外で取材活動をしたいと考えていましたが、大学院の指導教授に付いて沖縄に何度も足を運ぶうちに、日本国内にも自分が知らなかった問題があることを知り、新聞記者という仕事に目が向くようになりました。就活では、全国紙ではなく地方紙にこだわっていました。
①自由度の高さ②想像よりは優しい③向き不向きはやってみないと分からない、です。まずは自由度の高さに面食らいました。入社前は「下積み時代があって、記者として一人前になったら自分が書きたいテーマの取材ができるのかな」と漠然と思っていましたが、新人でも自分で時間をつくって取材すれば、いくらでも書きたい記事を書けるし、内容次第で大きく扱われます。紙面の上で先輩後輩は関係ありません。職場の雰囲気も想像とは違いました。映画「クライマーズ・ハイ」の影響もあり、こわもてのおじさんたちが怒鳴り合って紙面を作っているような職場をイメージしていたので、想像よりみんな優しい…と思いました。災害や事件、選挙のときなどイメージ通りのときも多々ありましたが…(笑)。自分自身に対して感じたギャップもあります。1、2年目は警察担当で、配属前は「私にできるかな…」と不安だったのですが、実際にやってみたら性に合っていて楽しかった。「ずっと警察担当でいいや」とすら思っていたのですが、次に長野市政グループに配属されて山間部の担当になったらそれもまた楽しくて、何事もやってみないと分からないなとつくづく感じます。
2021年10月に報道部社会グループからデジタル編集部に異動し、現在は主にウェブ版の記事を取材して書いています。信濃毎日新聞デジタルはまさに黎明(れいめい)期で、「面白そうなことはとにかく何でもやってみよう」というベンチャー企業のようなノリです。例えば、私は22年の春先、家族全員が新型コロナに感染したのですが、感染者になって初めて知ったことがたくさんあり、療養期間中に「これを記事で伝えたい」と考えました。復帰後、「一家4人、感染しました」というタイトルで連載記事を書きました。朝刊の紙面に縮小版、ウェブに詳細版を掲載しました。連載中、「感染したので参考にしたいけれど、体調が悪くて記事全文を読むのがつらい」という声を聞き、急きょ、とりあえず参考にしてもらえそうな情報だけを書き出し、ウェブ限定の番外編として掲載しました。雑談からネタが見つかることも多く、自由度が高くて楽しいです。ウェブオリジナル連載「経済つくるゲンバ」は就活生にも参考にしてもらえるよう意識しながら取材しているので、ぜひ読んでみてほしいです。現在は育児のため、時間外勤務や土日祝日の勤務を免除されているので、その中で取材や原稿執筆が完結できるよう調整しながら働いています。デスクといって、記事をウェブ用に編集してアップする業務もときどきやっています。
紙面製作のやり取りは基本的にロジカルです。先輩や上司と意見が食い違っても、説明したり、議論したりして、理が通っていれば納得してもらえる。当たり前のようで難しい、大事なことだと思っています。また、記者は皆、経歴、専攻、趣味、考え方などばらばらです。いろんな人がいるからこそ、いろんな視点の記事、それぞれの感覚を生かした記事が出てくる。テーマは同じでも、記者によって切り取り方はまったく違います。そんなとき、1人ではできない仕事をしているなと実感します。例えば、私は以前、人知れず「セルフネグレクト」(自己放任)状態に陥る1人暮らしの働き盛り世代について連載を書いたことがあります。これは私自身が20代の頃、仕事にやりがいを感じる一方で、私生活とのバランスが取れなくなり、セルフネグレクトに近い状態になっていた時期があったことから取材を始めました。日常での個人的な気付きや困り事もすべて役に立つ仕事だと思います。
さまざまな人と出会い、さまざまな考えに触れる中で、記者になる前よりは柔軟になれているかなと思います。特に、自分よりも若い人を子ども扱いせずに大人と接するのと変わらずリスペクトするようになりました。2015~16年に連載した年間キャンペーン企画「群青の風」の取材班に加わり、高校生や大学生への取材を長期間行ったことがきっかけです。新しい価値観や感性、パワーに触れ、人を尊敬するのに年齢は関係ないんだということを実感しました。バンド活動をしている高校生たちから教わった音楽は今も好きで、ときどき聞いています。自分が知らなかった世界や価値観に出合えることが、記者という仕事の大きな魅力の一つだと思います。
2021年に部落差別問題に関する連載記事を書きました。記事の連載中、ずっと不安で朝まで眠れませんでした。抗議や批判が怖かったのではなく、記事中のどこかに私の間違った知識や、ずれた人権感覚に基づいた部分があるのではないか、それが誰かを傷つけはしないかということが怖かったからです。しかし、読者の方からたくさんの反響をもらって、「理解してくれる人がいる」ということがこんなにも大きな力になるんだと実感しました。読者の声に励まされると同時に、自分の考えを言葉と態度に示すことってすごく大事なんだなと感じる機会でもありました。差別や偏見などを目の当たりにしたときに、「おかしい」と反応して、「放っておけない」「許せない」と何かわずかでも態度、行動に示す。そういう人の輪が少しずつ社会を良い方向に変えていくのかなと今は思っています。この連載以降、人権問題への関心を強め、今も取材を続けています。
子どもたちに「仕事って面白そうだな、大人って楽しそうだな」と感じてもらえるような姿を見せる、というのが今の目標です。それには私が1人で笑っていればいいわけではなく、多様な働き方、多様な生き方を自然に受け入れ合える会社、社会になっていってほしい。そのために、自分にできることをしたいと思っています。例えば、新型コロナ感染体験記の連載を書いた際には署名記事にこだわりました。これは、コロナ感染者に対する偏見や誹謗(ひぼう)中傷が問題となってきた中で、自分自身が実名で報じることで「コロナは隠さなければいけないことじゃない」というメッセージにしたいと考えたからです。誰でもネットで発信できる時代だからこそ、書き手の意志を伝えられる記事を出して、「言っていることとやっていること」がちゃんと一致している生き方をしていけたらいいなと思っています。
日帰りで、山に登って、温泉に入って、そばを食う―という非常にぜいたくな休日を過ごせます。同じ県内でも、地域によって文化や言葉が違うのがとても面白い。長く暮らしていてもまだまだ知らないことばかりです。子どもが小さいので最近はまったく行けていませんが、本当に好きな場所は飲み屋街です。昼の街も、夜の街もどちらも魅力的です。
雨の日以外は大体家族であちこちの公園を遊び歩いています。お気に入りは長野市の若里公園と南長野運動公園。冬場は近所の河川敷でひたすら雪遊びをしています。
「行けばわかるさ」。新人の頃、車で1時間近くかかる中山間地で住宅火災があり、現場に向かっている途中、当時の社会キャップ(プロレスファン)から言われた言葉です。私は現場に着くまでに少しでも情報がほしいと思い、キャップに電話をかけたのですが、「何か新しい情報は入っていませんか」と焦る私に返ってきたのが「行けばわかるさ」のたったひと言。苦笑して電話を切りましたが、この感覚がずっと生きている気がします。取材において事前の下調べはすごく大事だけれど、どんなに調べ尽くしても、現場に立って初めて分かること、気付くことの方が圧倒的に多い。取材だけでなく、何事においても、どんなに頭で考えても、ネットで情報を集めても、やはり実際にやってみなければ分かりません。「とりあえず行ってみよう、やってみよう」の精神で、フットワークを大事にしたいなと思っています。